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[幸田文]のさざなみの日記 (講談社文芸文庫)
幸田文(講談社文芸文庫)

この本は昭和29年に書かれた本です。これは小説仕立てになっていますが、主人公の境遇や家族構成などは著者の幸田文さんに重なります。話の舞台は東京都心の古くからの住宅地です。幸田文さんはこの頃は文京区小石川に住んでいたらしいので、僕はそのつもりで読みました。詳しくは知らないのですが、小石川辺りは江戸時代には武士の屋敷などもある所で、下町とも言えないようなところではないかと一人で想像しながら読みました。

昭和29年頃の東京に住む庶民の生活感覚の中に、はっとするような物の見方などが書かれています。
登場する人物も少ないし、若干の個性は当然ありますが、総じて普通の人達の生活とそこから生まれる会話でこの話は作られています。しかし、この普通の生活の中に、今の東京や日本人が無くしてしまったものが確かに書かれていると思いました。また、主人公の家に来ているお手伝いのおばさんの近所付き合いの様子は、中高年の僕などは少しの懐かしさを感じました。

心に止まったことを書き出してみます。
「近い先ゆきに何か特別な一大事件が発生しそうなけはいもないけれど、毎日まるでなんにもないことはない。明るく晴れている海だって始終さざ波はあるもの、それだから海はきらきらと光っている」
家族との生活の中に、いつも小さなさざ波があっていいのだと言っていると思います。さざ波があるからこそ輝けるのだということだと思います。懐の深い考え方で、共感しました。

「取柄は多少字が書けるというほかに、ひとの内輪を穿鑿しないことだ。決して立ちいらない。冷淡とか面倒がりとかいうのではなく、総じて明敏というたちでないのを承知しているいから、ひとのことをごちゃごちゃ頭のなかへ納め入れるのは好まない。」
これは人と付き合っていく中で、大切な知恵ではないかと思います。家族以外の人に干渉し過ぎるのは失礼だし、却って相手との距離が出来てしまうということを知っている人の言葉だと思いました。

「生活の楽な女より苦しい女のほうが、ある場合、きびきびと、生々(いきいき)としている・・・」
この言葉には、かなり深い洞察があると思いました。男から見た女性評では無く、女の人から見てこのような傾向があることを指摘されると、「そうかもしれない」と素直に思ってしまうし、人の幸せとは何かと改めて考えてしまいます。

話の本筋からそれますが、驚いたことがあります。それは、この本が書かれた昭和30年頃の昔からの東京の町では、近所の主婦同士が時々集まって食べたり飲んだりしていたことです。今はどうなのかわかりませんが、たぶんやってないのではないかと思います。(商店街ではあるかもしれません)
そしてこの時代の人はみんな長唄の「越後獅子」を知っていて、三味線を弾いてみんなで歌ったり踊ったりしていたことに驚きました。有名な曲ならば、他の長唄や端唄もみんなが知っていた時代だったと想像できます。また、三味線を弾ける人が近所に普通にいたこともすごいです。60年前は、こんなに趣きのある東京の暮らしがあったのだとビックリしました。日本人は便利さと引き換えに、心の豊かさや、ささやかな楽しみを無くしたのかもしれません。

本の背表紙に「洗練された東京言葉の文体」と紹介されていますが、確かに美しい日本語の中にどこか懐かしさを含んだ文章は、読むだけでいい気持ちになりました。

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